kumac's Jazz -2ページ目

Valenti Moya『Valenti Maya meets Monk』

 マニューシュジャズ(ジャンゴ・ラインハルトに代表されるスペインのロマ民族のギターによる伝統的な演奏方法)によるセロニアス・モンクの楽曲集です。といっても、全10曲中、Valenti Moya のオリジナル曲が2曲入っています。弦を掻きむしるような硬い音が狭い空間に響き渡る感覚があります。そういった臨場感が、新鮮なジャズです。ギターによるフラメンコの伴奏において、踊り子である主役をセロニアス・モンクに置き換えたようなものですかね。

 

 ただし、フラメンコはスペイン南部で盛んですが、ロマ民族のギターによる伝統的な演奏方法はスペイン北部の音楽です。両者の違いは、詳しくは分かりません。誤解を怖れずに書けば、似たような音楽が流れるということは同じですが、アングラ演劇と路上ミュージックの違いみたいなものでしょうか?

 

 Valenti Moya もちろんスペインのギター奏者です。彼のサイトを見ると、スペイン国旗、カタルーニャの国旗、それにイギリスの国旗が掲げられ、それぞれからその言語のページへのリンクが張られています(イギリス国旗は英語表示ということですが、リンクは切れています。)。わざわざカタルーニャ語のページ(インデックスページはありますが、スペイン語のページはコンテンツがあるのですが、カタルーニャ語のページにはコンテンツがありません。)を作るということは Valenti Moya はスペイン北部で、カタルーニャ地方出身ということでしょうか。詳細は、分かりません。

 

 この作品の一番の聴き所は、Valenti Moya がモンクの音楽をどのように解釈し、演奏するかということだと思います。確かに、マニューシュジャズ自体が珍しく、面白いということはあるのでしょうが、それは当然のこととして聴いてゆくことが必要だと思います。

 

 セロニアス・モンクの音楽は、幾つかの際立つ要素を持っています。一つは、何度聞いても飽きない郷愁を持って親しみやすいメロディ。一つは、命の根源を感じさせる沸き立つリズム感。一つは、独特の和音の使い方。その要素は、どれも一体となっているので、どの要素も欠かせないでモンクの曲を演奏すると結局はモンクの物まねになってしまうというジレンマが生じます。

 

 今、リー・コニッツの本を読んでいるのですが、その中にトリスターノは多くの人に音楽理論教えたが、誰もトリスターノに似た演奏をしなかったけど、チャリー・パーカーは誰にも自分の演奏理論を教えなかったが、多くの人がパーカーを真似た演奏をした。と書かれています。モンクも、どちらかと言われれば、後者なのでしょうね。

 

 肝心のこの作品に収められている演奏です。

 

 上記に敢えて取り上げたモンクの三つの要素のうち、この作品ではモンクが提示したメロディを消化した作品に仕上がっています。ですから、不協和音とか、ダンスミュージックに通じるモンク独特の間の取り方は、この作品に期待はしないことが肝心です。

 

 モンクの代表的な曲「Round Midonight」が5曲目に納められていますが、フランスのミュゼットのような演奏です。主旋律をアコーディオンが担い、どこか歌謡的な雰囲気の中で Valenti Moya がギターソロを加えてゆきます。緊張感がある演奏というよりも親しみ(日本人の kumac にとってはどこかエキゾチック)のある演奏です。

 

 次の6曲目は「Epistrophy」。曲の中に現れる緩急のあるリズムを巡って、演奏者が互いにソロをとりながら輻輳する感覚が素敵な曲ですが、Valenti Moya はストレートに弾いています。

 

 Valenti Moya が、鼻唄交じりにモンクの曲を演奏したらこうなったという印象の作品ですね。気軽に聴けて、なおかつ音が新鮮です。とても面白い作品です。

 

 

 

 

Kenny Barron『Book Of Intuition』

 録音は、2015年6月3日、4日です。メンバーは、ケニー・バロンの(p)、Kiyoshi Kitagawa の(b)、Johnathan Blakkeの(ds)です。

 

 これといった特徴がある作品ではない印象を持ちました。ケニー・バロンは、玄人好みの演奏をするという記憶なのですが、さすがに自分のソロアルバムとなると、なにかを表現しようとする意識が強いのでしょうか、それが逆に彼の個性を消しているような気がします。自己主張をしようとする余り、アグレッシブな演奏をし過ぎているような気がするのです。それが、空回りして反応するベースとドラムスが妙に五月蠅いです。

 

 なんとも褒めるところにない作品ですが、こう書いたのは決してこの作品がダサい思っているわけではなく、演奏自体はすごくセンスの良いジャズの王道をゆく、スタンダードなものなのです。では、ケニー・バロンの良さはどこに見いだせるのか、この作品のコンセプトはどこにあるのか、と自問自答を行うと答えが出てこない。これには、困りました。

 

 結論は、今日はこういう音楽を聴く気分ではないということです。だから、この作品がどうのこうのということではありません。

 どちらかというと、メンバーのKiyoshi Kitagawa と Johnathan Blakke とのセッションを楽しんでいるという作品です。だから、ケニー・バロンは敢えて自己主張をして、ベースとドラムスにこれでどうかという挑戦状を出しているようです。

 

 ミデアムからスローな演奏は、安心して聴けます。それは、体質的にケニー・バロンと合っているのでしょうね。こんな断言を kumac ごときがしてもなんら根拠もないし、なんら拘束力も無いのですが、3曲目「Cook's Bay」のミデアムな曲におけるケニー・バロンの手さばきは楽しいです。いろんな引き出しを持っています。ワンパターンに陥らないところが凄いです。個性がないのが個性という裏返しには、誰にも真似ができないその人だけの持つ魅力が備わっている証拠になります。つまりは、人は個性を持つ必要がないし、個性というものが仮に感じられたら、それは誇張なのだと思います。だから、飽きが来ますし、いつしか薄っぺらく感じてしまいます。

 

 褒めているのか、貶しているのかわからなくなっていますが、基本的に褒めているのです。今時、このような安定的なジャズの演奏ができるピアニストはあまりいないような気がします。なにが安定的なジャズの演奏かと言えば、ロックの影響がないということです、そういうことで言えば正統派、純血種を保っているということでしょうか。差別的なことを書いているのではなく、純血種がいないと、交配が複雑になり、どこかでジャンルの垣根がぶっ飛んでしまうということです。それは、それで良いというご意見もあるでしょうし、その方が面白いということなのでしょうが、ある面で言えば純血種は希少動物として保存展示され、死蔵されてしまうということで、その時点で消滅をするということです。

 

 消えて無くなることは、必然としても、すこしでも長らく生存して欲しいと思うのは人情というものです。

 

 

Lee Konitz『Figure & Spirit』

 1976年の録音。メンバーは、リー・コニッツの(as)、テッド・ブラウンの(ts),

アルバート・デイリーの(p)、ルーファス・リードの(b)、ジョー・チェンバース(ds)というクインテット編成です。録音がとても鮮明です。それだけに、リズム隊の粗さも目立ちます。

 

 この時期、コニッツは主戦場をヨーロッパに求めていました。母国のアメリカでは時はエレクトリックジャズ、ロックと融合したフュージョンと呼ばれた音楽が主流で、コード進行に基づきアドリブを展開するいわゆる楽器をインスピレーションで操る有機的な、あるいは無機的な音の羅列に時代の要求が離れていった時期です。

 

 そんな中、アメリカでもオーソドックスなモダンジャズをなんとか復活させたいという人もいて、この作品のプロデューサーであるガス・スタティラス(ライナーノーツ氏曰く『カフェ・ボヘミアのジョージ・ウォーリントン』も世に出している)もその一人だったようです。それで、トリスターノ派のサックスプレーヤーのリー・コニッツとテッド・ブラウンの双頭での演奏を果敢にこの時期に録音したわけです。

 

 演奏は、至極大人しいものです。奇をてらったことはなく、形の整ったトリスターノ派の演奏をしています。どこにも世間に媚びる表現は見いだせません。その代わり、自分たちの演奏を真摯に展開しているということです。

 

 正直、演奏にあまり面白みは感じられません。理由は明らかです。バックのリズム隊が陳腐なんですね。ただ、ビートを刻むだけで、コニッツやテッド・ブラウンの演奏を刺激する場面がほとんどありません。特にベースは酷いです。音の強弱や選び方が平凡です。多分、この時期、ドラマーやベースで才能のあるミュージシャンはこのようなオーソドックスなジャズの演奏にはあまり興味がなかったのではないでしょうか。結果、優秀なリズム隊を集められなかったのではないかと思います(勝手な憶測です。)。

 

 ピアノのアルバート・デイリーは、頑張っていると思います。そして、コニッツとテッド・ブラウンのアドリブ演奏を聴いている分には申し分ないと思います。コニッツは、ほとんどの場合、まったく自分の主張を曲げない演奏をしますから、ハズレはありません。テッド・ブラウンは、あまり癖のない演奏です。完全に、急増のセッションという印象の作品ではあります。

 

 一番良い演奏は、最後の「Feather Bed」ではないでしょうか。この曲は、「ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・ホーム・トゥ」のコード進行でテッド・ブラウンが書いた曲とライナーノーツ氏は書いていますが、確認の演奏は見事です。最初はテッド・ブラウンのソロですが、格好いいです。トリスターノ派の真骨頂を見せてくれます。要は、無機質なんですね。淡々としていて、なおかつエネルギッシュなんです。この意思を感じされせる矛盾をはらんだ演奏がトリスターノの薫陶を受けたミュージシャンの最高に評価される点ではないかと思います。一聴して地味なのですが、その先にとても大きな世界が広がっている気がするのです。コニッツの演奏も、自由自在にコード進行に沿ってアドリブをしています。白眉の演奏です。

 

 

 

 

Mike Nock Quartet『IN OUT AND AROUND』

 ニュージーランド生まれで、アメリカで活躍し、今はオーストラリアを主な拠点として活動しているマイク・ノックが、マイケル・ブレッカーを主人公に迎え、1978年に録音したカルテットの作品です。演奏者のクレジットには、フィーチャリングマイケル・ブレッカー、ジョージ・ムラーツ、アル・フォスターと3人が書かれています。その3人にピアノのマイク・ノックを加えてのカルテットになります。

 

 マイク・ノックは、東京ジャズで、ジャズ評論家の小川隆夫との対談を聞きました。そのとき、彼の演奏はなかったので、実際に生を見たことはありません。しかし、そのときの話から興味を持ったこと、それと、ピアニストであるハクエイ・キムの先生であったことから、何枚か彼のCDを聴きました。

 

 印象は、音が<シンプル>ということです。それと、マイク・ノックがロックを取り入れた演奏をしていた時期があり、ジャズ慣れした音ではなく、新鮮みのあるメロディが、kumac にはとても親しみやすい印象を持ちました。

 

 そして、この作品です。マイケル・ブレッカーは、kumac が考えるに、コルトレーン亡き後の最も重要なテナーサックス奏者と判断しています。それは、どういうことで断定するのかと言えば、まず正統なテナーの流れを引き継いでいること(かなり研究して、練習して身につけているという意味です。)、その上で新しいインプロビゼーションとしての音を追求したこと、実際にジャズの歴史において無視できない作品を幾つも作り出していたことからです。

 

 その二人が、1978年に吹き込んだ、マイケル・ブレッカーにとってかなり初期の時期の作品ということであれば、聴かないわけにはいかないわけです。

 

 総じて、幻想的な曲調の作品が多いです。この辺は、マイク・ノックがやりたい音楽を行っていると理解して止さそうです。マイケル・ブレッカーはあまり自己主張はしません。どちらかと言えば、マイク・ノックは、マイケル・ブレッカーの才能を欲しかったのではなく、表面的な音をアクセントとして欲しがっていたように感じられます。この叙情性は、ハクエイ・キムの音のセンスに共通性を感じます。

 

 正直、マイケル・ブレッカーに焦点を当てて聴くと、ハズレと思うかもしれません。

 

 例外もあります。最後の表題曲「In Out and Around」は、早いパッセージのメロディを持つ曲です。ここでのインプロビゼーションは、後のマイケル・ブレッカーを彷彿と感じさせる魅力を持っています。最初のソロをマイク・ノックがとりますが、そのソロはあまり既成概念に囚われない、音の選び(飛び方)をしています。それは、多分、,マイケル・ブレッカーにとっても刺激的な音ではないかと思います。それを受けてのマイケル・ブレッカーのソロがどういう演奏を行うのか、とてもワクワクとする流れとなっています。どこか、マッコイ・タイナーを思わせるマイク・ノックのフレーズです。マイケル・ブレッカーのソロは、ちょっと舌足らずです。多分、自分のイメージの音を出せないで藻掻いているのではないでしょうか。それでも、精一杯のインプロビゼーションを展開していると思います。その、苦しさがとても面白いです。音の感覚が壮大です。とても、広がりを感じます。

 

 この手の演奏は、冒頭の1曲目「Break Time」でも同様なのですが、「Break Time」は、最初にマイケル・ブレッカーがソロを行います。そのソロに対して、かなり執拗にマイク・ノックがバッキングで応えます。言ってみれば、独りのソロではなく、二人で掛け合いのソロを行っているものです。多分、この曲がこの作品の中での一番の白眉なのではないでしょうか。マイケル・ブレッカーも凄いぶっ飛んだソロを吹いています。マイク・ノックのソロに移ると、バッキングは消えて、マイク・ノックのピアノの音だけで進行します。この演奏は、マイク・ノックの持つ最初に書いた<シンプル>という音です。

 

 やはり、マイケル・ブレッカーはいいですね。そして、とても面白い作品です。

 

 

New Cool Collective『Sugar Protocol』

 オランダのアルトサックスプレーヤーであるベンジャミン・ハーマン率いるNew Cool Collective の2009年の来日に合わせて発売された作品です。録音も、この1年程度前ではないかと考えられます。

 

 タイトルに『feat. LOS PAPINES & MAPACHA AFRICA』とクレジットされており、LOS PAPINESは、キューバのラテン音楽であるルンバ、グァグァンコーの演奏者4人組であり、MAPACHA AFRICAはアデウデウというアフリカのイテソ族の伝統楽器であるギターの音に太鼓を加えグルーヴ感を出してゆくリズミカルな伝統音楽を演奏する3人組です。LOS PAPINESの音楽のルーツも、もちろんアフリカにあります。

 

 kumac がニュー・クール・コレクティブを生で見たのが、2011年2013年の東京ジャズです。その時点では、このような民俗音楽の複合したリズムとハーモニー、そして原色傾向の陽気な音色の音楽は、直接に感じられませんでしたが、今思えば、あのとき聴いたニュー・クール・コレクティブの音楽ができあがってゆく過程ではこのような、無色透明なあまり創造行為といった音楽の仕掛けを意識しなくてよい音を享受していたということを、知りました。面白い。

 

 このようなアプローチは、ニュー・クール・コレクティブにとっては、集団演奏でグルーブ感を出す感覚を身につけると言う点で、かなり重要な過程と捉えられるのではないでしょうか。そのグルーブ感を土台として、即興演奏を繰り広げるというのが、今のニュー・クール・コレクティブの一つのコンセプトになっていると思います。

 

 単純に言えば、この作品での肉声(vocal)をハーマンのサックスに置き換えてみれば、それは今(といっても2013年時点です)のニュー・クール・コレクティブに近づくのではないでしょうか。それにもとソウルの要素とロックの要素を組み合わせれば、より完成形になると思います。

 

 そういうことは抜きにして、単純にこの作品を、湧き踊るクールな民俗音楽として享受することで十分なのだと思います。ノリノリで身体を動かし、腰振って、魂振りしましょう。

 

 

 

Sugar Protocol Sugar Protocol
 
Amazon

 

 

Warne Marsh - Ted Brown『Live in Hollywood 1957』

 トリスターノ門下のテナー奏者テッド・ブラウンが所持していたクラブにおけるプライベートの録音テープの提供を受けてマシュマロレコードがCD化した作品。メンバーは、Warne Mardh(ts)、Ted Brown(ts)、Ronnie Ball(p)、Ben Tuker(b)、JeffMorton(ds)。

 

 ライナーノーツに書かれているテッド・ブラウンの回想によれば、ニューヨークでトリスターノの録音スタジオが1955年から1956年にかけて売りに出され、トリスターノとジャズ演奏の研鑽を積めなくなり、テッド・ブラウンがカルフォルニアに移動したのは1956年後半とのことです。

 

 それから、カルフォルニアでテッドブラウンは、ウォーン・マーシュの誘いを受け、このバンドで約8ヶ月演奏したとのことです。このブログでは以前に、同じメンバーでのスタジオ録音作品Warne Marsh『Jazz Of Two Cities』を紹介しました。そのときに聴いた印象は、あまり現在は残っていないのですが、確かロニー・ボールの演奏が妙に気に入った(他の作品でもそうなのですが)はずです。

 

 今、Warne Marsh『Jazz Of Two Cities』の演奏と比べることはできないのですが、さっと聴いて感じたのは、かなり自由奔放に熱気を放つ演奏をしているな、ということです。クラブでのライブ録音ということ、それに録音状態があまりよくないことから、楽器の音のバランスが悪く演奏が粗く感じるのかもしれません。

 

 しかし、そういう二次的な要素を除けば、第一に曲が持つメロディーを本能的に楽しんでいること。第二に、感情表現をかなり奔放に行っていることから、自由奔放という言葉を肌で感じます。録音が1957年2月というハードバップ全盛期の演奏ということもあるのでしょうか。でも、明らかにハードバップとは演奏スタイルが違います。一言で言えば、華美じゃないということでしょうか。

 

 器楽演奏を純粋に楽しんでいる、そいう真摯な姿勢を感じます。7曲目「Oops!」は、その代表的な演奏ではないでしょうか、曲のテーマは、あっさりした構造を提示するだけで、ユニゾンでテーマを演奏した後に、好き勝手にアドリブでイメージの幅を広げてゆきます。とても、楽しそうです。この辺の熱気は、素晴らしいです。決して大勢の支持を得られる演奏ではないですが、これぞジャズだという演奏だと kumac は思います。

 

 次、8曲目「Memories Of You」は、マーシュのバラード演奏から始まります。こういう動物の鳴き声のような本能的なバラードを聴かせられるのは、マーシュ意外ではなかなかいないのではないでしょうか。動物の鳴き声、呻きは、ドルフィーの演奏に通じる肉声と楽器が繋がった、そう簡単には達成できない境地が再現されています。マーシュ好みの方にとっては、最高の演奏です。

 

 録音状態がかなり悪い作品ですが、集中して聴いてゆくうちに、演奏の熱気に引き込まれてしまうよい作品です。

 

 

Date FM Jazz Struttin 2017.08.19

 久しぶりの仙台で流れている(といっても今は、ネットを通じて全国で聴ける)Date FM のジャズ番組の感想です。前回は、2014年だったので3年ぶり。

 

 相変わらず、洗練された大人のジャズという、先入観が先行している選曲が続きます。kumac もそろそろ、あまり考えずにリラックスして、「やっぱり、ジャズっていいなぁ〜」と聴いていても良いかなと思うようになってきたのでしょうか。

 

 今週は、カリプソ特集。夏ということでこういう特集となったのでしょうが、相変わらず宮城は、ヤマセです。寒いです。梅雨明け宣言が出てから、太陽は一向に現れず(1,2日ぐらいは出ていたと思いますが)。ちょっと、興ざめな感じですね。でも、音楽だけは、夏ですかね。

 

 

【1曲目】マチート&ヒズ・アフロ・キューバン・ジャズ・アンサンブル「カリプソ・ジョ

 ン」

 ノン・ジャズ

 

【2曲目】モンティ・アレキサンダー「リンボ」

 追っかけ再生で聴けず。

 

【3曲目】

 ハリー・ベラフォンテ「さらばジャマイカ」

 唄モノ

 

【4曲目】

 ビリー・テーラー「サマータイム」

 陽性の音。ストレートな音で好感が持てます。感情も、それほど入れずに、さらっと弾いています。この曲で個性を出すのは、難しいと思います。変に、奇をてらうとワンパターン(演奏者自身の自分の世界です)に陥りやすいと思うのです。なので、こういうあっさりとした演奏は聴いている方も、楽です。

 

 

 

【5曲目】サラ・ボーン「家に帰らないか」

 唄モノ

 

 ジャズヴォーカルの特徴は、乱暴に言えば、二つに分けられるのかなと思います。一つは、器楽的なアプローチ、音声も一つの楽器として考えて、アドリブを積極的に仕掛ける。もう一つは、その人にしかない唯一無二の肉声としての魅力を前面に押し出す。この両方ができる人は、ややもすると上手に歌ってしまいます。そうなると、ジャズの持つ、陰りとか、エネルギッシュさとか、荒削りさとかが消えてしまって、上質なポピュラーミュージックになってしまいます。サラ・ボーンは、両方を持ち合わせているのですが、どちらかというと器楽的であり、肉声としての魅力は kumac はあまり感じません。

 肉声としての魅力は、ビリー・ホリデーが頂点に存在していると思います。器楽的なテクニック的なものは二の次にして、自由に自己表現をしています。

 

【6曲目】

 宮里陽太「セテンブロ(ブラジリアン・ウェディング・ソング)」

 デイブ・コーツみたいです(少々、古いかな)。こういう音が結構人気があるのでしょうか。ちょっと理解できないです。世の中に置いていかれたかな感が強いです。ベースの使い方は、好きです。できればストリングを入れないで欲しかったです。ストリングとのセッションって、どうしても譜面どおりに演奏しやすい、あるいは定石を踏む感じになりますが、まさにピッタリと当てはまるような気がします。要は、ジャズもどきです。

 

 

 

【7曲目】ステファノ・ボラーニ「ア・ヴォス・ノ・モーロ」

 ソロに入ると、俄然イタリアーノ的な弾き方をします。どこがといえば、節が「ない」、という感覚的なことです。あまり好きなテーマでもないので(またサンバです。)、どこか違和感があります。

 

【8曲目】ジョー・スタッフォード「オールド・デヴィル・ムーン」

 唄モノ

 

【9曲目】デイブ・マッケンナ「手紙でも書こう」

 スコット・ハミルトンの花曇りの濁ったテナーで始まります。彼、優等生的な癖のない音を選びますが、テキサススタイルを彷彿とさせる豪快なスイング感を持っています。結構好きです。今日の番組で一番良いかな。デイブ・マッケンナのピアノは、シンプルなスインギーな軽快さを持っています。彼、バラード調の曲をどう弾くのか興味があります。二人の掛け合いは最高です。

 

 

 

【10曲目】トニー・ベネット「シャドウ・オブ・ユア・スマイル 」

 唄モノですが、ちょっと他の唄モノと違います。どうしてか、それは唄っている人の人生が感じられるからです。その場限りの、偽物の人生であるにしても声の主の生き様が感じられるのです。これをジャズ・ヴォーカルというのかどうかはわかりませんが、よいものは良いということでしょか。メロディーが良いとかすばらしい曲であること、それ以前の問題ではないかと、kumac は思うのです。ジャズという枠の中に入らない、もっと大きな存在に感じられます。乱暴に言ってしまえば、ただのポピュラーミュージック、エンタティナーです。ジャズの持つマイナーとしての魅力は感じられません。そこがイマイチなのでしょうね。

 例えば、ジャズとはなにか、ジャズヴォーカルの定義は、ということで言えば、その人それぞれ幾万、幾億通りの考えがあると思いますが、そういうことではなく、その人でなければ出せない、逆に言えばその人の存在がにじみ出て感じられるものであれば、上手下手などどうでもよくなるということなのかしれません。

 

 

 

 

 

 

 

Miles Davis『'Round About Midnight』

 言わずと知れたマイルス・デイビスの代表作の一つです。kumac は、これまでまともに聴いたことはなく、TSUTAYAに行ったらジャズコーナーに置いてあったので借りてきました。

 

 TSUTAYAに貸しCDとして置いてあること自体が、需要を見越してのことでしょうから、マーケットとしてはかなり貧弱で、TSUTAYAでジャズのCDを借りることのない、コアなジャズファンを商売の対象と想定しているのではないことは明白です。そうではなく、世間一般の様々な状況の中で止むに止まれず聴かなければならない人(例えば劇中の効果音、コマーシャル等の背景の音楽、焼き鳥バーのバックグラウンドミュージック)、ジャズに興味がありるけど、どれから聴いていいのかわからず、入門書で推薦されている作品をとりあえず借りる人、マイルスは嫌いだが、一度は聴いておかなければ批判はできないと思う人、などなど人の数のコンマ何パーセントは興味を持つCDだということになりますか。

 

 正直な話、kumac が持っている表題曲の「'Round About Midnight」の曲のイメージは、このCDの音です。本家のセロニアス・モンクの演奏での音のイメージはあまり、いやほとんどありません。意図しなくても、どこかですり込まれているのですね。

 

 マイルス・ディビスは不思議なジャズミュージシャンで、どの時代でもどちらかと言えば、その時々の人気のあるスタイルから、ちょっと距離を取っています。ビバップではいわゆるクールジャズを試み、ハードバップの時代はミュートを主体にしてエネルギッシュな演奏ではなく、抑制された即興演奏を展開し、バンドの音を組織化してゆきます。マイルス・ディビスは、彼なりのやり方で時代の空気を表現していることになるのですが、その結果が他のミュージシャンと違った手法というか音の響き方を追求していたように思います。

 

 この『'Round About Midnight』の録音は、1956年です。さきほど、バンドの音を組織化、とかきましたが、今聴くと、すごくコマーシャルな音に聞こえます。コマーシャルな音とは、誰にでも好まれる一般的な音、ということです。どうして、そう聴こえるかと言えば、それは多分、イメージ通りの音なのだからだと思います。イメージとは、マイルスが持っていたイメージでもありますし、今、多くの人が聴きたいと思う、<大衆>が持っているマイルスのイメージでもあります。

 

 そう考えると、ボーナストラックの4曲は、明らかに必要ないと思います。違和感があります。イメージを外す可能性があります。

 

 

 

Teddy Wilson『And Then They Wrote..』

 テディ・ウイルソンが、ハードバップがまだ勢いを持っていた1959年に録音したピアノトリオ作品です。ジャズの流行とは一線を画した、とても穏やかなスイングスタイルの作品集です。

 

 副題が、Plays the Great Songs Composed by Great Jazz Pianists とクレジットされているように、納められている曲は、すべて過去の偉大なピアニストが作曲したスタンダードと言える作品です。

 

 その偉大なピアニストとは、

 

 ジェリー・ロール・モートン

 ジェームス・P・ジョンソン

 ファッツ・ウォーラー

 アール・ハインズ

 デューク・エリントン

 カウント・ベイシー

 セロニアス・モンク

 スタン・ケントン

 ジョージ・シアリング

 エロール・ガーナー

 ディブ・ブルーベック

 

 となります。

 

 kumac が生で演奏を聴いたことがあるのは、アール・ハインズのみ。さらに、これまで、記録された音源だけからでも、まともに聴いたことがあるのは、デューク・エリントン、セロニアス・モンクとディブ・ブルーベックぐらいです。

 

 ジャケットがいいですね。一曲ごとに、その作品名と作曲者であるピアニストの名前をまったく違ったアルファベットのフォントでデザインして載せています。この書体をすべて言い当てられる人はまずいないでしょうね。

 

 例えば、最初のジェリー・ロール・モートンの「King Porter Stomp」は、曲名がエングラバースシェードという銅版彫刻系活字で字の中にこまかい万筋がはいっている書体(大文字しかない)が使われています。そして、JELLY ROLL MORTON という名前は、同じ銅版彫刻系書体のエングラバースボールド(ちょっと縦長ですけれど)が使われ、同じ書体系で統一感を出しているのと、銅版彫刻系書体は、公式な行事で使われる書体なのでどこか気品が感じられます。

 

 後に筆記体から派生した小文字などを使わずに、正式な大文字のみの書体を使っていること、そして最初の曲であることから、如何にテディ・ウィルソンがジェリー・ロール・モートンに対して畏敬の念を持っているかが分かります。

 

 自分の曲と名前については、さりげなくサンセリフ系の細い線の書体を使っていることから、謙遜の意味が込められていると考えられます。

 

 文字のことを話してしまいましたが、そのように一曲一曲、丁寧に演奏されています。スイングスタイルの演奏ですが、指のタッチはとてもゆったりとして、一音一音に気持ちを込めた録音であることが感じられます。特に、際だった作品ではないとは思いますが、細部まで丁寧に作り上げられた作品であることは十分に伝わってくる、気品ある作品です。

 

 

 

Nora Jones (仙台ゼビオアリーナ)

 

 音楽のライブを聴くのは、約1年前のボブ・デュラン以来です。ジャズのライブとなると、もう昨年の1月のブルーノートのマイケル・チャンスまで遡ります。

 

 ノラ・ジョーンズは kumac の中では、ジャズミュージシャンではありません。そもそも、今、ジャズボーカルは、骨董趣味みたいなものであると感じています。断定をする気持ちは毛頭ありませんが、従来の形式を踏襲しない(簡単に言えば、ジャズバンドが奏でる音を背負わないような)ジャズボーカルを、今以てついぞ見い出せないでいます。

 

 これまで、触手が動いた人はいます。

 

 例えば、マデリン・ペルー、リズ・ライト、パトリシア・バーバーなど、でも結局はジャズ・ボーカルの枠を超えてしまい、ジャズではなくなっていると感じて、それ以上聴く気力を失ってしまいました。パトリシア・バーバーは、そうではないのですが、結局、スタンダードナンバーをメインにおけないと、客は喜ばない状況が続いています。

 

 では、現代におけるジャズ・ボーカルってなんだろうということになるのですが。kumac には分かりません。

 

 理屈ではなく、感じるものだと思います。

 

 今、ジャズ・ボーカルといわれているものは、いわゆるスタンダードナンバーを歌い上げることとほぼ等しいと思っています。それは、ある面、需要と供給のバランスの上で成り立っててきた結果だと思うのですが、ジャズが持つ破壊と創造という面と相反する部分では、kumac はまったく物足りないと思っています。結局、違う一面において、安定を休息を求めることとイコール=ジャズとなってしまいます。

 

 それも、ありでよいのです。そして、歳を取るにしたがって、ゆったりとした気分に浸りたいときには、とても重宝する音楽なのですが、・・・やはり、それでは物足りないのです。

 

 ノラ・ジョーンズのコンサートでは、冒頭、ノラ・ジョーンズのピアノと、他にギターとドラムのトリオ演奏で、オーソドックスなジャズボーカルを披露しました。これには、正直、面食らってしまいました。素敵です。

 

 ここで言うジャズ・ボーカルとは、音声を器楽的にコントロールする技術と、ワード(言葉)に自在に想いを込める、即興性です。それも器楽的だけではない(アル・ジャロウやベテー・カーターとは違うという意味です。)、感情が言葉にこもった情感溢れる表現が感じられるということです。その意味では、ノラ・ジョーンズはジャズボーカリストと言っても十分に通用すると思います。

 

 中盤の独りでの弾き語りは圧巻でした。その素晴らしい表現力に、マスメディアが放っておかないのか、それともノラ・ジョーンズ自身が狭い世界に収まることをよしとしないのかわかりませんが、安易にポピュラーミュージックに傾いてきている気がします。大衆性を獲得することは実利的には当たり前なことなのでしょうが、ジャズボーカルにおける即興表現を如何に現代のジャズにおいて創り出すかという点においては物足りません。

 

 オーソドックスという点では、なんら進化は見られませんが、先に書いた、休息と安寧を求めた場合には、文句がないということです。

 

 ジャズ・ボーカルにおいて新しい試みを行おうとすると、必然、他のジャンルの音楽の影響を排除できない状況にあります。必然、ノラ・ジョーンズ、マデリン・ペルーなどのように、フォークやカントリー的な要素が入ってきます。これは、仕方がないと思いますが、そこに矛盾があるのではないかと思います。

 

 簡単に言えば、アン・バートンが今の時代に『ブルー・バートン』でデビューしたとすると、全く違った次回作が出されて、プロデューサーもクレイグ・ストリートが起用されるといった現象が起きるのではないだろうかと思うのです。