Nora Jones (仙台ゼビオアリーナ) | kumac's Jazz

Nora Jones (仙台ゼビオアリーナ)

 

 音楽のライブを聴くのは、約1年前のボブ・デュラン以来です。ジャズのライブとなると、もう昨年の1月のブルーノートのマイケル・チャンスまで遡ります。

 

 ノラ・ジョーンズは kumac の中では、ジャズミュージシャンではありません。そもそも、今、ジャズボーカルは、骨董趣味みたいなものであると感じています。断定をする気持ちは毛頭ありませんが、従来の形式を踏襲しない(簡単に言えば、ジャズバンドが奏でる音を背負わないような)ジャズボーカルを、今以てついぞ見い出せないでいます。

 

 これまで、触手が動いた人はいます。

 

 例えば、マデリン・ペルー、リズ・ライト、パトリシア・バーバーなど、でも結局はジャズ・ボーカルの枠を超えてしまい、ジャズではなくなっていると感じて、それ以上聴く気力を失ってしまいました。パトリシア・バーバーは、そうではないのですが、結局、スタンダードナンバーをメインにおけないと、客は喜ばない状況が続いています。

 

 では、現代におけるジャズ・ボーカルってなんだろうということになるのですが。kumac には分かりません。

 

 理屈ではなく、感じるものだと思います。

 

 今、ジャズ・ボーカルといわれているものは、いわゆるスタンダードナンバーを歌い上げることとほぼ等しいと思っています。それは、ある面、需要と供給のバランスの上で成り立っててきた結果だと思うのですが、ジャズが持つ破壊と創造という面と相反する部分では、kumac はまったく物足りないと思っています。結局、違う一面において、安定を休息を求めることとイコール=ジャズとなってしまいます。

 

 それも、ありでよいのです。そして、歳を取るにしたがって、ゆったりとした気分に浸りたいときには、とても重宝する音楽なのですが、・・・やはり、それでは物足りないのです。

 

 ノラ・ジョーンズのコンサートでは、冒頭、ノラ・ジョーンズのピアノと、他にギターとドラムのトリオ演奏で、オーソドックスなジャズボーカルを披露しました。これには、正直、面食らってしまいました。素敵です。

 

 ここで言うジャズ・ボーカルとは、音声を器楽的にコントロールする技術と、ワード(言葉)に自在に想いを込める、即興性です。それも器楽的だけではない(アル・ジャロウやベテー・カーターとは違うという意味です。)、感情が言葉にこもった情感溢れる表現が感じられるということです。その意味では、ノラ・ジョーンズはジャズボーカリストと言っても十分に通用すると思います。

 

 中盤の独りでの弾き語りは圧巻でした。その素晴らしい表現力に、マスメディアが放っておかないのか、それともノラ・ジョーンズ自身が狭い世界に収まることをよしとしないのかわかりませんが、安易にポピュラーミュージックに傾いてきている気がします。大衆性を獲得することは実利的には当たり前なことなのでしょうが、ジャズボーカルにおける即興表現を如何に現代のジャズにおいて創り出すかという点においては物足りません。

 

 オーソドックスという点では、なんら進化は見られませんが、先に書いた、休息と安寧を求めた場合には、文句がないということです。

 

 ジャズ・ボーカルにおいて新しい試みを行おうとすると、必然、他のジャンルの音楽の影響を排除できない状況にあります。必然、ノラ・ジョーンズ、マデリン・ペルーなどのように、フォークやカントリー的な要素が入ってきます。これは、仕方がないと思いますが、そこに矛盾があるのではないかと思います。

 

 簡単に言えば、アン・バートンが今の時代に『ブルー・バートン』でデビューしたとすると、全く違った次回作が出されて、プロデューサーもクレイグ・ストリートが起用されるといった現象が起きるのではないだろうかと思うのです。