kumac's Jazz -3ページ目

Mimmo Cafiero『Domani e Domenica』

 イタリアのドラマー、Mimmo Cafiero のピアノトリオのリーダー作です。Mimmo Cafiero については、詳細はネットでググってもよくわかりません。録音は、1996年5月6日及び7日です。ジャケットの写真を見る限り、年齢は50歳(録音当時?)くらいでしょうか(外国人の年齢は見た目ではよく分かりませんが)。
 
 ドラマーのリーダー作だからと言って、ドラマーの演奏は目立ってはいません。ジャケット表面(おもてめん)に、リーダーと共にピアノの Salvatore Bonafede とベースの Paolino Dalla Porta が併記(字の大きさは幾分小さいですが)されているところからも、あくまで曲の持つ情緒を引き立たせるためのリズム楽器としての役割に徹して、好きな音楽を奏でる、といった作品になっています。
 
 とは言え、全7曲中3曲は自身のオリジナル曲です。その一つアルバムの表題曲の「Domani e Domenica」は、ドミニカ共和国に関係する曲ですが、リズム的にカリプソの要素がある曲です。この辺は、Mimmo Cafiero の趣向が入っているのでしょうね。長い演奏の曲で、様々なドラムとベースとピアノの掛け合いが聴かれます。こういう、一聴するとあまり目立たない地味な演奏を入れてくる辺りは、この作品良さと言えると思います。
 
 よほどジャズが好きで無い限り(バックグラウンドとしてただ流すだけなら差し障りはないのですが)、嬉々としては聴けないと思います。
 
 次のオリジナル曲は「Sud」という、タイトル通りとても淡い、悲哀に満ちた曲です。美しいです。
 
 そして最後、三曲目のオリジナル曲は「Rosa」です。この曲は、他の曲と違い輪郭が不鮮明です。何かを強調しようというものではなく、よく分からない自分の感情というか、印象を表現しようとしています。それが、何かが聴き手にはよくわからない、ということです。多分、タイトルに込められた意味があるのだろうなと思います。
 
 どこの地域、国の文化でも、地理やその時代や、時々の権力者の主義趣向によって、そこで暮らす人々が考える<かっこよさ>というものが違います。同じ時代や国においても、若い人とある程度歳をとった人でも全く違います。
 
 そういうことで言うと、イタリアは家族を大事にする印象があります。それは音楽とどう繋がるかと言えば、若い人達が社会(大人)に反抗する音楽に、つまり音楽を武器にして社会や大人達と戦おうとはしないのかなと思います。ロックもそうですが、ジャズはその反抗とい点で賢い音楽だと思うのですが、それが(全くではありませんが)抜け落ちたのがイタリアのジャズなのかも知れません。
 
 悪い意味ではありません。社会によって良い潤滑油になるという意味では、とても他大事なことです。その良い例が、この作品だと思います。
 
 
 

Ken Rhodes『Ken Rhodes Trio』

 アメリカのメンフィスに1945年に生まれたピアニストです。新宿のディスクユニオンで2016年録音の新譜と紹介されていたので購入したのですが、どうもCDにある説明書を読むと1996年頃のライブ録音が「父の思い出に」として2016年に発売された新譜のようです。それは、2016年8月にケン・ローズは死亡していますし、このCDのどこにも2016年録音というクレジットはありません。ウィキペディア(英語)では、録音は2000年と書かれていますので、どちらにしても2016年の録音ではなく10年以上前の録音と思われまれます。

 

 アメリカのシカゴで演奏活動を行い、一時期、ドイツでクラシックの仕事を行ったり、ダスコ・ゴイコビッチと演奏を共にしたようです。ドイツ時代にヒップホップ調の代表作を録音しています。ググると、その作品の紹介が多く出てきます。

 

 この作品は、アメリカン・アートという美術館のレイナードハウスという建物でライブ録音されたものです。

 

 kumacは、アメリカに住んだことも行ったこともないので、アメリカのジャズが文化として、アメリカ人の生活にどのように溶け込んでいるのかわかりませんが、テレビ等の情報で知る限りは、元々は黒人の文化にしても、その分流として、白人に洗練された娯楽として受け入れられていった部分があったと思っています。ベニー・グッドマン、グレンミラー、フランク・シナトラ、トニー・ベネットなど。オスカー・ピーターソンもその流れに入るのかも知れません。しかし、ビル・エバンスはちょっと違うのですね(自分でもこの違いが説明できない。)。

 

 このケン・ローズは、まさしく kumac が先入観として持っている洗練されたジャズそのものです。過去のヒップポップ系の演奏は影を潜めています。ちょっとその片鱗を感じさせるのが、3曲目「Assignments From A Post Life」で聴けるファンキー調な演奏でしょうか。さりげなくファンクなんですね。全面に押し出すような演奏ではありませんが、ファンクの癖とうか魂が身に染みついて自然に出てくる感覚です。とても気持ちの良くなる演奏です。

 

 その他は、6曲目フリーフォームの「Pierre's Nightmare」を除けば、高級ホテルのバーで静かに奏でられるような雰囲気とメロディーを大事にした演奏が続きます。タッチもとても綺麗です。

 

 外は、昨夜の湿った雪が、しっとりと家々の屋根に音を包み込むように積もっています。そんな静寂を感じさせる演奏です。

Chris Pitsiokos『One Eye with a Microscoope』

 1990年アメリカ生まれの若いアルトサックス奏者の作品です。今時、このような演奏をするのには、きっと訳があるのだと思います。その訳を詮索してもしょうがないので、気持ちよいと言えば、晴れ晴れしいという点ではそうとも言えるし、陳腐と言えば、既に聞き飽きた過去のジャズの遺産とも言えます。

 

 音の粗さが、現代の感覚に親和性を持たせているのだと思います。しかし、まとまりが良すぎるのかなとも思います。その点は、表題の顕微鏡を覗いてみた音楽と捉えれば、裸眼で見た音は小さな塊にしか見えない訳で、そういうところに全エネルギーを集中することは、無駄ではない作業になるとは納得する次第です。

 

 kumac の既成概念で言えば、アヴァンギャルドです。フリージャズ言い換えると、どこか理論が見え隠れしそうなので、前者の表現の方が良いのではないかと思います。

 

 このところ、kumac は、マルセル・デュシャンに関する本を読んでいます。キュビズムの画家、つまり芸術を創造する画家として出発したデュシャンがレディメイドで、画家の最も芸術家らしい作業である<手作業>を取り去り、概念だけで芸術を成り立たせようと企てた、ちょっと考えるとダダ的な反芸術行為は、<芸術>を前提としている限り、デュシャンの意図を欄外だったわけです。

 

 芸術を無化しても、なお美術史の中でデュシャンは語られます。それは、どこかに芸術を感じさせる名残りがあるからではないかと思いますが、芸術を、美術を成り立たせるものを取り払っても、なおそれが美術、芸術である理由を探せば、そこには芸術家、美術家というレッテルがどこまでも貼り付いている事以外、なんの理由もないのではないかと思ったりもします。

 

 レッテルだらけの世界の中で、それらを取り払ったものを提示することはなかなかできないことではないでしょうか。

 

 それができるとすれば、既成とはなんの脈絡もない事物を、なんとか人間の手垢が付かないように置くこと、置かれること、置き去りにすること、忘れ去ること、しかないような気がしています。

 

 そこで、この作品ですが、今、ちょっと書いたことを音で少し表現しようとしているのかなと思った次第です。

 

 

 

 

 

Thomas Maasz『Thomas Maasz Trio』

 オランダのピアノトリオです。元々は自主制作の作品で、それを復刻したものを手に入れて聴いています。ですから、今(2016年12月)から数年前の録音かとも思われますが、詳細は不明です。それは別にして、若手の新しい感覚のジャズのピアノトリオ作品です。

 

 ちょっと、言葉で説明しようとすると、捉えどころが無い印象を持ちます。大抵は、初めて接するミュージシャンの場合、ジャズにおける楽器ごとにどの系統とか、誰の影響下にあるかとか、そういった常識的なことから探りを入れて、音楽を聴いてゆくうちに、こういう他のジャンルやそ土地の伝統的な音の癖を拾ってゆくのですが、ちょっと捉えどころが無いです。

 

 別な言い方をすれば、kumac の既成概念では括れない音です。

 

 全体としては、マイナー調の感情的な起伏の少ない、ミデアムテンポ主体のヨーロッパのクラシカルな洗練されたデリケートな音です。こう書いても、皆目見当が付かないと思いますが、その退屈な時間の中に、時々、ポッと聞き慣れたというか、安心させるメロディーが入り込んでくるのです。そのタイミングというか、訪れる瞬間が、ちょっと定番なスタイルではないのですね。意外性を持っています。だから、どうしてこんな演奏をするのだろうか(できるのだろうか)と思ってしまいます。

 

 5曲目のスタンダード「Don't Explain」は、まっとうに弾いています。どても情緒豊かで、聞き惚れてしまいます。ジャズに対しては、しっかりとした受容の器を持っているミュージシャンと思われます。他にも、「All The Thing You Are」や「Skylark」などのスタンダードを、敢えて自分の名前でアレンジとクレジットをして演奏しています。その曲を聴くと、前出の「Don't Explain」はちょっと違う(癖のない演奏をしていて)のですが、他のオリジナル以外の曲はテンポや主旋律の音の選び方をかなり自分流に変化させています。その変化の方向は、「アンチ・・」といった印象を受けます。Thomas Maasz の個性が出ているというよりは、まだ「敢えて」逆らっている印象です。だから、穏やかですが、フリーフォームに近似した印象を持ちます。

 

 こういう音に耽美的な快感を持っているのかも知れません。美しいといえば、美しいです。壊したりは決してしません。7曲目のオリジナル「Tant Bien Que Mal」は、とても静かで、美的感覚が研ぎ澄まされた、あまり甘くもなくて、気持ちよい曲です。

 

 あっさりともせず、かといって情熱的でもなく、さりげなく、そしてちょっと反抗的な音でしょうか。色んな可能性を感じさせる作品です。

 

 

 

 

 

Franco Piccinno『Migrations』

 2014年10月録音。イタリアのピアニスト Franco Piccinno のトリオ作品です。録音から発売まで1年半以上の時間がかかっています。この時間のズレが何を意味するのか、さしたる意味がないのか、判りませんが、なんとなく気になります。

 

どうして最初から、どうでもよい話をしたのかと言えば、最初に聴いた印象が、<時間>というものを感じさせたからです。よく、生活していて感じることですが、時間が早くすすむ、とか。時間が進むのが遅いとか。そういうところで、この作品は「時間が進むのが遅い」という感覚を第一印象として持ったのです。

 

 別な言葉で表現すると、<重厚>な音の響きです。メロディー自体もいたってシンプルで癖のある、妙に自己主張をするような癖は感じません。他のジャズミュージシャンで言えば、ブラッド・メルドーのような演奏です。メルドーのタッチは羽の生えたように軽いのですが、Franco Piccinno は至って正統な弾き方をしていると思います。

 

 音をなぞるような弾き方はしていません。どの音も、明確な自己主張を伴っています。だから、落ち着いて聴けます。心地よいとさえ言えます。安心できる、そんなことを言いきっても良いかもしれません。破綻はありません。

 

 情感は豊かです。だから、ジャズ的な雰囲気作りにはもってこいの作品だと思います。でも、けっしてイージーリスニングの代替えにはならないと思います。聴いていると、音の連なりに引き込まれる危険姓があるからです(褒め言葉です)。

 

 現代のヨーロッパのメインストリームジャズの範疇にあきらかにずっぽりと入る作品だと思いますが、個性を際立たせないところがいいです。かといって、凡庸には感じられない、どこか新鮮な響きを持ちます。この辺りの印象が、時間を感じさせるものかなと思います。それは、即時性を感じるからだと思います。時代を共有しているなという演奏です。それは、善し悪しですが、これ以上突き詰めて考えると、ことが複雑になるので、そもそもジャズから離れてしまいます。

 

 ということで、意外に手応えのある作品です。

 

 

 

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Sebastian Noelle『Shelter』

 1973年ドイツ生まれのギタリスト、セバスチャン・ノエルの作品です。ネットでググるとヨーロッパの現代ジャズギタリストと出てきますが、2002年からはアメリカに活動の拠点を移しています。

 

 ジャズにおけるギターによる表現は、なかなか難しいと kumac は考えています。まず、切り口の問題。例えば、集団演奏におけるリズム楽器としての柔らかいジャズギター、例えば、チャーリー・クリスチャンから続く、ワンホーンライクなブルージーでシングルトーンのメインストリームを貫く陰影を持つジャズギター。そして、ロックの影響を避けて通れなくなった感情を露出したジャズギター。そして、ヨーロッパに起きた実験的なジャズギター(ディレク・ベイリー、テリエ・リピダル等)。

 

 様々な音楽と融合してきたジャズの歴史の中で語ることもできるし、そうかと言えば一瞬で感知してしまう音色で語ることもできるような気がします。

 

 グラント・グリーンの音色とパット・メセニーの音色は明らかに違います。では、ジム・ホールの音色はどちらに近いか・・・・。これは、感覚的というか、感情的なもので好き嫌いに繋がるものです。

 

 セバスチャン・ノエルは、ジャズの歴史的な系譜の中で捉えれば、テリエ・リピダルの演奏に近似的な印象を持ちました。やはり、活動の拠点をアメリカにしているとは家、演奏はヨーロッパ大陸の匂いを感じます。また、環境音楽に近いものを目指しているとも感じます。

 

 例えば、4曲目「Rolling with the Punches」はミニマルミュージックの手法を使いながら、何かを主張するわけではなく、ある一定の音の印象を描いてゆくものです。それは、気持ちよいものです。けっして感情を揺さぶるものではなく、あくまで場を静めるための音、手法というものです。セバスチャン・ノエルのギターの音色の特徴を演奏と絡めるとすると、こういった演奏が一番、しっくりとくるのではないでしょうか。

 

 どちらかというと、こういう演奏からフリーフォームに近い傾向の演奏が多いのですが、心地良さを求める方向に向かわないこと自体が、ジャズの本道を行っているとも言えるかと思います。こういう芯の強いミュージシャンは尊敬に値します。つまり、決してメジャーに向かわないところがいいですね。 

 

 こういう音楽にはかなり生理的な感情が先に走ってしまうことが多いと思いますが、、音楽接する態度としては、「現に今、聴いてい」るということ自体いおいては、それが受動的だろうが能動的だろうが、自分の<心に起こったこと>に素直に従うことが肝要かなと思います。そして、それがどうしてだろうと自問自答することができたら、もっと素晴らしいことではないかと思います。

 

 

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Cyrus Chestnut『Revelation』

 アメリカのピアニスト、サイラス・チェスナットの1993年録音のトリオアルバムです。kumac は、彼の名前だけは聞いた覚えがありますが、名前と演奏を結びつけて、きちんと認識して聴いたことはありません。というよりも、誰かの作品のサイドミュージシャンとして聴いたかも知れない、といった程度です。

 

 彼がジャズシーンで名前が売れ始めたときは、kumac がほとんとジャズを聴かなかった時期に当たります。今も、名前でCDを買ったりはほとんどしません。大体、新作は、8割方ジャケ買い+お店の宣伝の文章だけです。廉価版を買うときは、なるべく知っているミュージシャンは、特定の人(例えば、コニッツとか)以外、避けるようにしています。

 

 それなので、kumac の住む田舎の CD ショップで廉価版を見ていたら、この得体の知れない(失礼)名前にを食指が動いたわけです。

 

 小気味よい演奏です。これぞ、ピアノトリオといった音の風情です。衒いなく(自分の個性を強調することなく)、内なる良心に従って、心地よい演奏をしています。この<内なる良心>って、いわゆるブルージーなゴスペルを感じさせるネイティブで根源的な、新しさを追い求めるような邪心がない無垢な心、といっていいでしょうか。

 

 だから気持ちよく聴けます。最高です。何も言うことはありません。決して裏切ることがありません。安心して聴けます。少々、物足りなく感じるかも知れませんが、そういうときは躊躇なく、他のミュージシャンの作品に替えればよいわけです。

 

 ライナーノーツ氏(ワーナーミュージック<WPCR27914>)の文章を読むと、1990年代に日本でリーダー作を録音し、そのときのベースがクリスチャン・マクブライドだったと記載がある。確かに、ここでのベース、クリス・トーマスの演奏を聴いていると、アプローチが似ている。それでなくても、クリスチャン・マクブライドが演奏したがるような曲調が全体の雰囲気を支配している。どっちがどうかしらないですが、ウイントン・マルサリスの原点回帰の動きに呼応する印象を持ちます。

 

 どの曲がどう、といいよりはすべてがジャズの醍醐味、恍惚、即興、衝動、哀愁、神聖など、を見事にコンパクトに収めた作品です。

 

 最近のヨーロッパのいわゆるロックでクラシカルなジャズばかり聴いていると、こういう本場アメリカのオーソドックスなものを聴くと、心躍り、そして心が落ち着きます。

 

 良いですね。

 

 

 

Daniel Zamir『Forth and Back』

 このCDタイトルの『Frorth and Back』という言葉は、ジャケットには書かれていない。では、どこにあるのか?それは、ジャケットを覆うビニールの包装に貼られている、普通、「New!!」などと書かれている宣伝文句のようなの丸いシールに何気なく、書かれている。だから、聴こうとしてシールを剝がしてゴミ箱に捨てると、どこにもタイトルが見当たらないことになる。強いて言えば、ダニエル・ザミールという名前だけが残る。

 

 解釈は、こうだ。聴こう(意思が前に進む:Forth)として、行動(ビニールをを破り捨てる)すると(立ち止まる:and)、期待したもの(自分)がない(ない)、そこで戻る(自分ってなんだろうと過去を考える:Back)。

 

 作者の意図とは全く関係の無い変なことを書いたが、表現としてはベーシスト、アヴィシャイ・コーエンのジャズに対する接近の仕方に共通項を見いだせるイスラエル出身のソプラノサックス奏者、ダニエル・ザミールの作品を聴いて、謎解きを最初にしたくなった。

 

 イスラエルのミュージシャンを色眼鏡で見ようとは思わないが、彼らの表現の根にある精神に近づこうとすると、このようなブルース(土着性)に出くわす。先日、聴いた梅津和時が演歌調のブローをジャズ、アルトサックスで行わざるを得ない状況に陥ったことと、完全に相通じることを考えざるを得ない。

 

 単純な言い方になるが、エルサレムが三つの宗教の聖地であるように、この音楽にはアラブとユダとイエスの元となる血が完全に流れている。それが、彼らのブルースだ。

 

 ジャズとしての要素だけで聴くと、心地よいソプラノサックスの音です。展開(アドリブ)も見事だし、ストレートで情熱的でかっこいい(現代的、ロック的要素を持つ)です。だから、あまり、最初に書いた音楽とは関係の無い話を、先入観として持つ必要はないと思う。純粋にジャズとして楽しめる作品です。

 

 ソプラノサックスで、ここまで朗々と吹く作品を kumac はこれまで聴いたことがない。アヴィシャイ・コーエンにも通じるかも知れないけれど、楽器を、音色を操るということでは見事としか言いようがありません。

 

 5曲目「Two」は、どこか e.s.t. を思わせる郷愁がある。それは、現代的な感覚(ロック、民俗性、デジタル化などです。)が染みているということですが、若い世代が熱狂的になるということでは欠かせない要素になっているけれど、そこがワンパターンに陥るコマーシャル化(つまり、世の中に認められるという点で今の世の中に欠かせないこと)という危険姓を孕む。こういう方向に音楽(ジャズ)が動いていることは、多分、一過性の流行と思った方が良い(最低、四半世紀単位で考えると)。

 

 だから、これからどうなるかと考えると面白い。

 

 2015年1月録音。

 

 

FORTH & BACKFORTH & BACK
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生活向上委員会2016+ドン・モイエ

 梅津和時は、一度しか生では聴いていないと思う。それは、私がまだ大学1年生だったとき、1977年頃だったと思う。八王子のアローンのさよならコンサートで聴いた、1回のみであった。しかし、梅津和時がそこにいたことは知っていたが、演奏自体生活向上委員会管弦楽団としての集団演奏だったので、井上敬三以外のミュージシャンの記憶はほとんどない。

 

 しかし、若かりし頃の kumac は、大いに刺激を受け、その後のジャズに対する姿勢に大きな影響をこの時の体験により受けている。生活向上委員会といいう名は、そのときに生まれ、その後数年続いて消えたと思っていた。

 

 そこに、先日、梅津和時が隣町に来るという、そして何とかというバンドとのコラボだという。kumac は、てっきり、コラボの相手が「渋さ知らズ」だとそのとき咄嗟に思った。梅津和時自体は、聴きたいとは思わない。そして、渋さ知らズも、あのワンパターンはもう聞き飽きた。変化のないジャズは、心地よく聴くという点では、緊張と理解を無理強いしないものでなければいけない。そういう変化のないジャズ(いわゆる普遍性)は、またジャズの本来のあり方の一つだと思っている。

 

 そんなわけで、聴きに行く気はなかった。

 

 でも、数日前に友人から、チケットが1枚余っているのであげると言われた。送られてきたチケットに添付されていたパンフレットには、「渋さ知らズ」ではなく「生活向上委員会」という言葉が書かれていた。何を今更、そんな名を冠するのだろうか?。という疑問が kumac には生じた。それで、現在形の生活向上委員会とはどういう演奏をするのだろうか、という興味で聴いてきた次第です。

 

 結論を言えば、「生活向上委員会」という言葉は、人寄せパンダです。kumac みたいな昔を懐かしんで50,60代の、へそ曲がりのへんてこりんな人間達を呼び込もうとする算段だと理解した。とは言っても、こんなド田舎に人と変わったことに興味を持つ人間は、そうは多くない。隣町の教育委員会は、生涯学習に対する積極的な仕掛けを行っていると、ちょっと聞いた。例えば、映画館のない街なので、月に1回定期的な文化的な香りのする映画の上映会を行っているとか、新聞に、面白い企画を仕掛けていると紹介されていた。多分、その一環で、宮城出身の梅津和時に白羽の矢が飛び込んだのだろう。

 

 演奏は、休憩時間を挟んで前半と後半に別れていた。そして、演奏内容も、かなり違っていた。演歌と民謡の違いまではない程度であるけど。

 

 前半は、フラッシュバックしたかのような、定型的な、なんら変化のない普通のフリージャズ演奏だった。多分、原田依幸に、梅津和時が寄り添ったのだろう。このなんか懐かしく、自分も歳をとったな(緊張が持続しなくて付いて行けない)と思わせる演奏の中で、ドン・モイエだけが、とても自由にリラックスして演奏していたのが印象的だった。まったく、力むところがない。それなのに、すべてが音楽となっていた。平坦な音の中に、ドン・モイエのドラミングが時々際立っていた。

 

 後半は、少しリラックスした演奏に入った。つまり、緊張の糸が切れたわけではなく、音に寄り添う感覚が漂ってきた。ただ、原田依幸だけは自分のフリージャズニストとしての領域を死守しようとしてつまらなかった。梅津和時の演奏は、最初に書いたように、生で聞いたのは大昔だったが(それも特定の演奏は記憶にない)、テレビなどでたまにバックで演奏する姿を見ていると、演歌っぽい印象を持っていた。日本的な情緒であるが、まさに熱唱していた。ドン・モイエは相変わらず自由であった。

 

 演奏自体は、面白かった(後半のみですが)、これは、絶対にキャパ100人程度の小さな箱で聴けばまるで違った雰囲気になったと思う。これが一番残念だったことだ。もし、満員の会場であったら、彼らの熱気は中を舞って、客を巻き込み一体となってカオスを生み出したであろうに、実に、実に残念であった。

 

Filippo Viganato『Plastic Breth』

 1987年に伊ヴェネトに生まれた Filippo Vingnato (フィリッポ・ヴィニャート)(Trombone , Filters)による作品。他に、Vannick Lestra(Fender rhodes , Synth Bass)、Attila Gyarfas(Ds)が加わっている。録音は、2015年3月8日(パリ)及び8月21日〜22日(ハンガリー)と CD にはクレジットされている。レーベルは、イタリアの AUAND RECORDS だが、どうもこのフィリッポ・ヴィニャート 

の活動の場は、イタリアに限らず、パリを中心としたヨーロッパ全域ではないかと推測する。

 全くの現代音楽である。それにジャズの要素が加わったと理解した方が良いのではないかと思う。ジャズにおけるトロンボーンの変遷を考えると、かなり初期から重要な要素を占めていた。それは、ジャズがまだトラディショナルな集団演奏の形態が主だった時期に、音の広がりを創り出す、重要な役割を持っていたからだと思うし、そもそも楽器としてクラシック音楽では欠かせない主要が楽器として認知されていたから、また軽音楽に置いても中音域の膨らみを出すためには欠かせない楽器となっていた。

 それが、ビーバップ以降、器楽演奏のソロがメインとなってから、楽器の特徴からなかなか主役を張れない時期が続いた。今でも、トロンボーン奏者の作品はあまり出てこない。結局、J.J.ジョンソンを筆頭とするハードバップの時代において、単楽器としてのそろによるアドリブ演奏が確立されて以降、それを打ち破る奏法や音作りは見当たらないと言っていいのではないだろうか。それ以外は、やはりオーケストレーションの中で、相変わらず音の領域と膨らみをもたらす重要な楽器としての位置を保つしか、生きる道を見いだせないでいる。

 極端なことを書いているが、この作品は、では、そのどちらかと言われれば、アンチ J.J. ジョンソンである。自分のCDを出す段階で、すでに主役になっているわけであるから、集団演奏になるかならないかという選択肢において、トリオという形態になれば、ソロ楽器としての作品とならざるを得ないのだが、かといって単純にオリジナルだろうがなかろうが、ある楽曲をテーマにして自分のアドリブ演奏の妙を世に示そうとするものではない。その意味で、アンチ・・・である。

 しかし、シンセサイザー奏者がクレジットされているように、音は単純ではない。言ってみれば、新しい音、刺激のある音、自分が求める演奏に必要な音、をの音に対してどうシュミレートしてゆくか、ということがこの作品の肝ではないかと思う。それ自体が、新しい現代のトロンボーンの世界の音への挑戦、みたいなことだと思う。本人にとっては、それがジャズだろうが、そうでなかろうがあまり関係はないのだろうと思う。この作品の音を聴いていると、そう思わざるを得ない。ただし、ドラマーの音は、完全なジャズのアプローチである。

 江戸時代、無類の動物好きの将軍徳川吉宗に中国の商人から献上された象が、東海道、箱根の関所越えを行い江戸に連れてこられ、将軍に披露されてから約22年間生きたと言われているが、その時々に、聞こえたであろう象の嘶き、といったことをイメージするとよく理解できる( kumac だけかな?)作品である。とにかく、娯楽の要素はほとんどない。聴く側は、実験音楽を聴かせれている感覚になると思う。

 そういう音楽が好きな人はこの世の中、いくらでもいる。実験であるから、成功・不成功が結果として存在しているわけで、その結論がどの時点で示されるのかということが問題としてあるけれど、今はまだそういう時期ではないということだろう。ただし、面白いことには間違いない。

 一番ジャズらしい演奏は、8曲目「Stop This snooze」辺りかな。一定の規則性を持った単純に3人の演奏が絡み合う、いわゆるフリージャズである。感情なり、意思をぶつけ合うという感覚である。その意味で、聞きやすい。音にひずみもなく、演奏は洗練されている。全体的には、アルバムタイトルが示すように無機的な音である。そういう演奏が好きな人には、快感である。