Chris Pitsiokos『One Eye with a Microscoope』 | kumac's Jazz

Chris Pitsiokos『One Eye with a Microscoope』

 1990年アメリカ生まれの若いアルトサックス奏者の作品です。今時、このような演奏をするのには、きっと訳があるのだと思います。その訳を詮索してもしょうがないので、気持ちよいと言えば、晴れ晴れしいという点ではそうとも言えるし、陳腐と言えば、既に聞き飽きた過去のジャズの遺産とも言えます。

 

 音の粗さが、現代の感覚に親和性を持たせているのだと思います。しかし、まとまりが良すぎるのかなとも思います。その点は、表題の顕微鏡を覗いてみた音楽と捉えれば、裸眼で見た音は小さな塊にしか見えない訳で、そういうところに全エネルギーを集中することは、無駄ではない作業になるとは納得する次第です。

 

 kumac の既成概念で言えば、アヴァンギャルドです。フリージャズ言い換えると、どこか理論が見え隠れしそうなので、前者の表現の方が良いのではないかと思います。

 

 このところ、kumac は、マルセル・デュシャンに関する本を読んでいます。キュビズムの画家、つまり芸術を創造する画家として出発したデュシャンがレディメイドで、画家の最も芸術家らしい作業である<手作業>を取り去り、概念だけで芸術を成り立たせようと企てた、ちょっと考えるとダダ的な反芸術行為は、<芸術>を前提としている限り、デュシャンの意図を欄外だったわけです。

 

 芸術を無化しても、なお美術史の中でデュシャンは語られます。それは、どこかに芸術を感じさせる名残りがあるからではないかと思いますが、芸術を、美術を成り立たせるものを取り払っても、なおそれが美術、芸術である理由を探せば、そこには芸術家、美術家というレッテルがどこまでも貼り付いている事以外、なんの理由もないのではないかと思ったりもします。

 

 レッテルだらけの世界の中で、それらを取り払ったものを提示することはなかなかできないことではないでしょうか。

 

 それができるとすれば、既成とはなんの脈絡もない事物を、なんとか人間の手垢が付かないように置くこと、置かれること、置き去りにすること、忘れ去ること、しかないような気がしています。

 

 そこで、この作品ですが、今、ちょっと書いたことを音で少し表現しようとしているのかなと思った次第です。