kumac's Jazz -6ページ目

Jimmy Smith『Livin' It Up !』

 京都で今、行われている KYOTOGRAPHIE における嶋臺ギャラリーでの<A VISION OF JAZZ : フランシス・ウルフとブルーノート・レコード>では、おなじみのコルトレーンやセロニアス・モンクを撮影したウルフの写真とともに、ジミー・スミスの写真が多かった。多かったと言うよりも、魅力的だった。その演奏に集中する姿が、である。この時代、1956年から63年にかけて、ジミー・スミスは貪欲にジャズオルガンを極め尽くし、ハードバップという激しい荒波の中をくぐり抜けた。その勇ましというよりも、ある種、悪魔が取り憑いたような演奏に集中する迫真の姿が、あのコルトレーンの『ブルー・トレーン」のなんとも肝心の音楽が抜け落ちた姿と、対照的だった。

 この作品は、その這い上がってきたブルーノート時代を経て、ポピュラーとなったジミー・スミスの音楽が聴ける時代に作られた。至って、ムード歌謡の風情である。オリバー・ネルソンがアレンジをした小編成のオーケストラをバッグに、当時、ヒットした名曲が演奏される。そこには、アレンジを超えようとするジミー・スミスのほとばしる音はない。

 第一に、オーケストラにはベース奏者を置いている。務めているのは、レイ・ブラウン。モンクはないが、ジミー・スミスに与えられた役割は、如何に気持ちよいオルガンの音色を響かせるかにあり、ビートを刻むことは念頭に置かれていない。

 かっこいい演奏と言えば、言える。しかし、何かが足りない。それは、何か。オルガンの醍醐味である納豆のような粘りと両手両足を使い全力でかき混ぜたときの高揚感だったりするものが、この作品にはない。オリバー・ネルソンはその部分を、オーケストレーションで肩代わりしようとしているらしい。いやぁ、物足りない。オルガン・ジャズをなんと心得ているのだろうか。

 愚痴ばっかり書いたけれど、こういうジャズも、時には必要であるとは kmac も思っている。時と場合を考えた場合には、一人寂しく、何もやる気がないときに、ただボッーとしているときに、聞こえてきたら最高であると思う。

 なんか、「ジミー・スミス、お前もか」と言いたくなる。そこで、薄笑いを浮かべたら、最高である。


リヴィン・イット・アップ!(Livin’ It Up!) (MEG-CD)/Jimmy Smith(ジミー・スミス)

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Chet Baiker In Europe

 チェット・ベイカーの最晩年(1975年~1988年)のヨーロッパでの姿を映し出した写真集『Chet Baker In Europe』に付属する CD です。この写真集はドイツで出版されています。内容は、1975年以降に発表された CD のディスコグラフィーと、その順番に当時のチェット・ベイカーの姿を収めた写真がちりばめられたものです。

 最後は、死の直前、1988年5月7日の演奏中の姿を捕らえた写真2枚があり、その次に5月13日にチェット・ベイカーがホテルの窓から路上に落ちて横たわっている姿(布が被されていて姿は見えないけど、6日前の演奏中の穿いていたズボンが身体から伸びているのが見える)、5月18日の葬儀での棺の中のチェット・ベイカーの姿が映っています。

 演奏は、ランダムです。

 1曲目は、1979年のビブラフォン奏者の Wolfgang Lackerschmid とのデュオの作品「Double O」です。とてもアーバン(都会的)な曲に仕上がっています。どこかクリス・ボッティを彷彿とさせます。こういうセンスは、なかなか作ろうとしても作れないものではないかと唸ってしまいます。7分の演奏をほとんどソロみたいな演奏をしています。 Wolfgang Lackerschmid は、引き立て役という感じで終始、伴奏役になっています。でも、二人の微妙な掛け合いが魅力的でもあります。途中、息切れするよなところもなく、メロディアンスで創造性のある演奏を聴かせてくれます。2曲目も、同様な二人の演奏です。

 3,4は、インタビューが録音されています。4番目の中で、チェット・ベイカーが鼻唄交じりのスキャットをちょっとだけ聴かせてくれます。いいですね。

 5曲~8曲目は、1985年の9人編成のバンドでの演奏です。CTI の演奏からコマーシャルリズムを取り除いたような演奏です。

 9、10は1988年1月のインタビューです。英語がわからないので、内容はちんぷんかんぷんです。
 
 最後の11曲目は「I Remember Clifford」。これは1分28秒と短いです。演奏の録音自体が途中で終わっています。チェット・ベイカーのソロ演奏です。1988年1月29日のものです。トランペットの音色に幾分エコーがかかっています。とりたててどうという演奏ではないですが、この頃になると原曲のイメージが、チェット・ベイカーの中で見事に昇華され、別な曲にでもなったかのような威厳というか、魅力が短い演奏の中でも伝わってきます。

 
chet



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MALTA Live at AVENUE

malta

 倉敷の美観地区にあるジャズのライブハウス AVENUE で5月1日に行われた アルトサックス奏者MALTA のライブです。

 このライブハウスというかジャズ喫茶?というか。金沢であれば東茶屋街、京都であれば祇園の真っ只中にあるという感じのとてもシチュエーションの良い場所にあることが驚きです。このライブハウス、ギリギリで百人くらい入るのでしょうか。

 多分、70人位は入らないと元は取れないような気が、なんとはなくします。この日は、ほぼ満員、ざっと80人程度でしょうか。MALTA の人気なのか、それとも地元の方々のジャズに対する愛情なのか、よくわかりません。

 演奏は、ごくシンプルで、とてもメロディアスでノリの良いものでした。どこかデイヴ・コーズに渋みというか、枯れみを加えたような音と動きでした。さすが、一時期(今も?)バラエティでも活躍したミュージシャンです。エンターティナーという風格も感じますが、純粋にジャズを謳歌しようという明るい姿勢と音がとても好感が持てました。

 演奏全体のアドリブ自体さほど創造性があるわけではなく、お決まりのフレーズ(真剣勝負の冒険をほとんどしない)が多く、外連味のない娯楽に近いのですが、それでも楽しい2時間半を過ごさせていただきました。ジャズは、やはりライブがいいですね。

 ちょっと気になったのは、鳥越啓介というベース奏者です。MALTA のワンマンバンドなのでしょうが、その中でも結構、自己主張をしていた印象を持ちました。おもろかったです。



Don Cherry『Eternal Rhythm』

 kumac のドン・チェリーへの印象は、特に演奏自体については、さほどに濃くはない。けれど、ドン・チェリーという名前は強烈に記憶の中に残っている。それはどうしてか、自分でもよくわからないけれど、kumac がもっとも感受性が豊かで、ジャズを真剣勝負のように熱心に毎日聴いていた時期と、ドン・チェリーの活動の時期、それも来日の時期とちょうど重なったという、周辺の要因が影響しているのだろうと思う。
 
 かと言って、ドン・チェリーの演奏をまともには聴いた記憶はほとんどない。特に、オーネット・コールマンのユニットでの演奏以外では、皆無といってもよいのかもしれない。しかし、民族衣装を身に纏い、大勢で楽しく演奏している彼らのステージでの様子は、写真での姿であるが、鮮明に覚えている。

 どうやら kumac は相当に、ドン・チェリーに興味があったということは間違いがない。その興味とは、何に対してだったのかということを考えてみると。それは、どうも「始原」という言葉で言い表されるようなものに、はなはだ関心があったということだったと思える。「カオス」、「混沌」と言い換えても良いかもしれない。

 まだ、何も生まれていない始まりの、破壊と創造が繰り返される。そういう、いわば芸術のもっとも<素朴なありよう>みたいなことに魅力を感じていた、ということだったような気がする。コルトレーンもドルフィーもそしてオーネットも、スティーブ・レイシーにしても、その演奏を突き詰めてゆくと、ある地平に辿り着く(、かのような錯覚に陥る)。それは、すべてを包括するものであるかのように、ある種の純粋な精神状態をもたらしてくれる。そういうものに憧れるということがある。kuma には、それが確かにあった。それと、ドン・チェリーの姿は重ね合わさる。

 今、この邦題で『永遠のリズム』と直訳された作品を聴いていると、ドン・チェリー自体の演奏は、明らかにオーネット・コールマンの影響下にあると思える。では、何が違うのか。それは、ライナーノーツ氏(今井正広氏)が書いておられる「音楽のオーガニック化(有機的なつながり)」ということなのだろうと思った。

 世界中の誰とでも音楽の演奏を通じて一緒になれる、という平和主義と言ってもよい、音楽という世界共通の言語、息遣いを通じて、人々が繋がるということ。それを可能としたのは、一つにはジャズ界に起きた、フリージャズの拡散という、ある種の運動だったのだろう。その、最良の成果の一つではないかと思う。今となっては、いささか古めかしいけれど。

 パート2の演奏は、ガムランが全面に出ては来るが、その巨大な音はチベットの地を揺るがすようなラッパの音を彷彿とさせる。なにもかも破壊し、再生を繰り返す音であり、とても小気味が良いと感じるのは私だけだろうか。



 永遠のリズム/ユニバーサル ミュージック クラシック

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Keith Jarrett『At The Deer Head Inn』

 1992年9月16日に、この作品のタイトルともなっているジャズクラブ " Dear Head " で行われたキース・ジャレットのトリオのライブ演奏を収録したものです。このジャズクラブは、キース・ジャレットが18歳の時に初めて、「真面目にピアノを演奏した」クラブとのこと(CDジャケットに書かれているキース・ジャレットのコメントによる)です。

 日本語で言えば、凱旋公演みたいなものでしょうか。特別な演奏会だったことは、当時、キース・ジャレットのトリオとしての活動は、いわゆるスタンダードトリオになるのですが、この日のメンバーは、ドラムがポール・モチアンとなっています。キース・ジャレットとポール・モチアンとの共演も16年振りとのことで、二重の意味で「再会」ということが、キース・ジャレットの気持ちの中にあり、普段とは違う演奏になる可能性があったということになります。

 1曲目「Solar」は、スタンダードトリオとさして変わらない印象を受けます。このマイルスの曲を、起伏の少ないクールな音の表情で弾きこなします。マイルスのクールとキースのクールでは、かなり違いがあるのですが、この曲の解釈としてはマイルスの意図を忠実にキースなりに咀嚼したものではないかと思います。

 2曲目「Basin Street Blues」は、出だし、一瞬ですが、キース・ジャレットの初期の代表作『サムエア・ビフォーアー』を思い出させるカントリー&ゴスペル調のノスタルジーなものです。しかし、アドリブに入ると、まるでビル・エバンスのスコット・ラファロとポール・モチアンのトリオ演奏を聴いているような気持ちになってゆきます。本来、ベースのゲーリー・ピーコックはオーソドックなジャズベースを弾く印象はなく、どちらかというと「間」を大事にする奏者と思います。その特徴が、スコット・ラファロとかチャリー・ヘイデンとかと相通じるところがあるとつくづく思わせる演奏です。やはり、そこには「間」を上手に生み出す本家、ポール・モチアンの存在が強烈にあるのかなと思わずにはいられません。

 3曲目「Chandra」は、ミデアムテンポの優しいメロディーを持った暖かな曲です。それを、このトリオは、終始、アドリブの間も維持します。もし、ここでジャック・ディジョネットがドラマーだとしたら、彼のアグレッシブなドラミングで演奏に推進力がつき、曲の持つ雰囲気がどこかで、違ったものに変わったと思うのですが(それが、スタンダートトリオのおもしろさ)、そうはならないところが、さすがです。

 しかし、キース・ジャレットは、感情の高まりがある到達点に達すると、自分の持つ精神性の高い演奏に没入してゆきます。この3曲目でも、まるでソロコンサートのような演奏に後半は変わってゆきます。それは、やはり特別な場所での演奏ということが、彼にある種、地霊が憑依したような演奏に豹変させてしまったということかもしれません。ここのところは、好き嫌いの分かれるところかなと思います。飽きると言えば、飽きるのですが。

 こんな風に一曲一曲を書いていたら、キリがないので、この辺で終わりますが、明らかにこの時期のキース・ジャレットのトリオ演奏としては、特別な位置を占めるものだと思います。つまり、スタンダードトリオが、スタンダード曲の演奏を中心としていながら、その演奏のほとんどを占めるアドリブ演奏の時間では、かなり原曲の雰囲気を崩しているものに対して、ここでの演奏では原曲のイメージを終始、維持したアドリブを展開しています。

 そこには、ゲーリー・ピーコックの器用さというよりも、器の広さと、ポール・モチアンの印画紙のような、他の演奏者の鏡となる静穏なドラミングがあって、初めて成立するものだと思います。その二人がキース・ジャレットの特別な演奏を引き出したと思います。

 よいものを聴かせていただきました。




 At the Deer Head Inn/Ecm Records

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Archie Sepp『Attica Blues』

 1972年1月24日から26日の録音。アーチー・シェップと言えば、フリー・ジャズの戦士というイメージが kumac の中では離れない。代表的なことでいえば、ジョン・コルトレーンの『アセイション』のイメージが強い。つまり、その他大勢の、フリージャズのミュージシャンであった。しばらくは、しかし、ブルースを彼なりに昇華し、あからさまに表現しようとする頃から、興味を持ちだし、逆照射するように聴いたことがあった。
 
 確か、『Going' Hone』をレコードで買って聴いた記憶がある。

 どうして、あたかも反転をするかのように、難解で抽象的な音楽から、原点回帰をするように具体的なメロディーを、印象を表出するようになったのか。それを問うても、あまり意味のないことかも知れないけれど、この時期、盛んにアメリカのジャズミュージシャンは、ルーツを追った。

 この作品を聴くと、ウィントン・マルサリスを彷彿とする。彼が、あの退屈にも、執拗にジャズの原点を主張す作品を出した頃を。

 冒頭、表題曲となった「Attica Blues」は、ソウルフルなディスコ調のポップミュージックだ。それを " Blues " とタイトルに表現することに、時代の感覚に鋭敏なアーチー・シェップが感じ取れる。それから、4曲が、ナレーションを伴い主義主張を言葉で表現する。音楽家が、抽象的な音楽では飽き足らず、言葉を使い始めたら、何かを強いく伝えたいし、行動を自分に課すことになる。

 6曲目は、冒頭と同じくディスコ調の曲であるが、今の kumac からすると、イタリアのファイファイブとかを連想させる。この曲「Blues For Brother Georg Jackson」は、1960年にガソリンスタンドで60ドルを強奪した疑いで終身刑を受け、1971年に脱獄を謀ったとして射殺された30歳の黒人青年に捧げた作品である。冒頭の、アッテカという地名は、黒人囚人の暴動が起きた刑務所である。(いずれも、ライナーノーツ氏より)。

 ジャズという表現の精神や形式が持つ、自由度、抵抗性、攻撃性といった音楽でも特徴的な部分を、よく体現した作品だと思います。

 玉石混交のきらいがありますが、「玉」一つあれば十分です。

アッティカ・ブルース/アーチー・シェップ

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Bill Evans Trio Konitz & Marsh『Crosscurrents』

 ビル・エバンストリオにリー・コニッツとウォーン・マーシュが加わった作品です。録音は、1977年2月28日と3月1,2日。ビル・エバンスのトリオは、エディ・ゴメス(b)とエリオット・ジグムンド(ds)です。

 やはり、1970年代の音ですね。クラシカルなビル・エバンスのトリオに、これまたクールなイメージを持つ、白人のサクソフォン奏者二人の組み合わせは、いったい何を狙ったのでしょうか。ブルージーな演奏には絶対にならないことは、誰でも想像できます。この時期、アコーステックでリリカルな演奏が果たしてどれだけ共感を得たものか、よくわかりませんが。エレクトリック指向のジャズも、次第に飽きられ、ジャズのルーツへの原点回帰が始まろうとしている時期でしょうか。そんな中、ビル・エバンスの死の約3年前に吹き込まれたこの作品は、骨格がちょっと明確でないような気がします。有名なプレーヤーが、ただ顔を合わせれば、何か素晴らしいことが起きるというのは、幻想で彼らが指向していた音楽が互いに一致したところで、素晴らしいものができるのだと思います。

 この時期、ウォーン・マーシュは、スーパーサックスである意味、原点回帰を行っている時期で、演奏自体、彼にしてはかなり流ちょうな言葉遣いで、アクセルとブレーキの緩急をつけたかけ具合が絶妙な、kumac が好きな本来の演奏から離れているような気がします。方や、リー・コニッツは、我が道を行っており、この三人で何かを作ろうという意思よりは、演奏を自分なりに楽しもうとする印象です。

 肝心のリーダーのビル・エバンスはどうかと耳を澄ますと、一音一音に集中力を欠いている印象を免れませ。メリハリがないというか、緊張感があまりない状態に感じます。

 選曲は、とても美しいメロディーを持ったものばかりなので、静かに心落ち着けて、耳を澄ませて聴けば、素晴らし演奏だと思います。その辺は、やはりただ者達ではありません。

 kumac的には、2曲目「Ev'ry Time We Say Goodbye」でのウォーン・マーシュの独演が聴けただけで十分です。それと、最後の曲「Night And Day」でのビル・エバンスの演奏は。人が変わったように素晴らしいです。どうしたのでしょうか。この落差。この2曲を聴くだけでも、買う価値ありそうです。

Crosscurrents/Original Jazz

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Charles Mingus『Mingus Plays Piano』

 1963年7月30日録音のチャリー・ミンガスのピアノソロアルバムです。冒頭の、ミンガスのオリジナル作品「Myself When I Am Real」は、ミンガスがピアノを弾けば、こういう音をだすだろうという先入観というか、期待感とはかけ離れたエキゾチックで、なおかつ情緒的な曲です。さほどピアノのテクニックは上手ではなく、いわゆるヘタウマの妙というよりは、自部の心の中のピアノという楽器で奏でたいと思う素直な音を正直に拾い出して、空間に響かせている印象です。いわゆるピアニストと称されるジャズメンは、表現したい音のイメージを意識的ではなく本能的にそして妥協せずにピアノという楽器と格闘しながら、自分の音楽を極めてゆくと思うのですが、そうではなくミンガスは、ここでは「格闘」というよりは「素直」に自分をありのままに表現しているという印象を持ちました。そこが、体制に対する怒りを見事に表現してきたミンガスという先入観から外れているとことになるのかもしれません。

 例えば、絵描きは、表現を突き詰めて行くと、その表現方法の素材や材料というものと、どこかの時点で格闘しなければならないと思うのですが、卑近な例で言えば片岡鶴太郎やジミー大西のように素人でも人を魅了する絵が感覚的にすっと描けるようなことはあります。しかし、そこには、素材との格闘を経た末の自分とも美術作品とも言えない、渾然一体とした自己表現とは、なにかしら奥行きがなく一線を画すものだと思います。あるいは、色彩版画でもくすんだ表現が多い銅版画家駒井哲郎が油絵という色鮮やかな色を持つ素材を使って描くモノタイプ絵のように、そこには油絵画家では表現できない純粋な世界があったりします。

 4曲目「Roland Kirk's Message」は、ミンガスのオリジナルです。題名の通り、盲目のプレーヤーであるローランド・カークへの伝言という作品ですが、かなり力強いタッチです。この辺は、ミンガスのベース奏法と相通じるものがあります。音楽がメッセージ性を帯びると、力強いものになるということでしょうか。

 いつぞや、京都のジャズ喫茶「JAZZ HANAYA」で近所のおっさんが店にあったピアノで、突然ブルースを弾き始めたときの、木訥な演奏に心を奪われた。そのときの、興奮した感覚が蘇ってきます。

 ジャズはアフリカン・アメリカンの悲哀を音楽で表現するという理屈以前の根源的、感覚的なものがあります。その代表的な体現者の一人であったチャーリー・ミンガスは「怒り」で表現を行いました。この時期にピアノ演奏を行ったのは、彼が求めるピアノの音が、なにかしらの理由で必要だったのでしょうね。方や、悲哀を「喜び」という感情で屈折的に表現したと言えるセロニアス・モンクいます。デューク・エリントンは悲哀を、誇り高く「高貴」に表現しました。いつか、『Oh Yeah』を聴いてみたいと思います。

 冒頭の演奏は、どこかキース・ジャレットのインパルス時代の演奏に通じるものがあります。また、アーマッド・ジャマルのようになにかしらの確固たる信念が感じられます。だから、自分の魂に素直に向き合って、優しく表現した作品なのかなと思います。ミンガスが持つ、武装しない優しさが表れた作品かなと思います。

 良いものを聴かせていただきました。感謝。




Mingus Plays Piano/Impulse

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Milt Jackson『That's The Way It Is』

 1969年のシェリーズ・マンホールでのミルト・ジャクソン・のクインテットのライブ録音です。タイトルにフィーチャリング、レイ・ブラウンと書かれているとおり、ベースが、レイ・ブラウンという、ソウルフル名演奏が聴けること間違いなし、と思わせる作品です。

 メンバーは、ミルト・ジャクソンの Vib、レイ・ブラウンの b、テディ・エドワードの ts、モンティ・アレキサンダーの p、ディック・ベークの dsです。

 冒頭の「Frankie And Jonny」は、レイ・ブラウンのベースによるブルージーな前奏から始まります。とても、おおらかであり、またとてもソウルフルです。そのスモーキーな雰囲気をいじらずに、ミディアムテンポで全体の演奏に突入ていきます。お見事。

 2曲目「Here's That Rainy Day」は、ミルト・ジャクソンのバラード演奏。ミルト・ジャクソンは、 ゲーリー・バートンのようにブラフォンの音を共鳴させませんが、かといって打楽器的に叩く感じでもなく、ちょうど中間の、これといって演奏技術的には特徴がないような気がします。それだけに、余計な音の情報に惑わされずに聴けます。ここのバラードも、ストレートで好感が持てます。

 3曲目「Wheelin' And Dealin'」は、アップテンポの激しい曲です。ここでは、テディ・エドワードが馬力のあるテーマを吹き雰囲気を紅葉させます。その後、ミルト・ジャクソン、モンティ・アレキサンダーのソロと続きます。ミルト。ジャクソンは折り目正しく至って冷静に演奏しますが、モンティ・アレキサンダーは曲のあおりを受けて、かなりエネルギッシュな演奏を繰り広げます。ライブハウスでは、こういう演奏の方が受けるでしょうね。

 4曲目「Blues In The Bassment」は、題名のとおりにレイ・ブラウンのベース演奏に焦点を当てた作品です。冒頭、レイ・ブラウンの独奏(ドラムのタイムキープはある)でテーマが奏でられます。そして、メンバーのソロの最後にレイ・ブラウンのソロが入ります。それは、テーマをなぞりながら、弦を唸らすたわいもないものですが存在感がありますね。

 5曲目「Tenderly」は、レイ・ブラウンの丸ごと1曲のソロ演奏が聴けます。

 肩肘張らず気軽に聴くには最高の作品です。


That’s the Way It Is/Mca

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Bill Evans『Consecration The Last vol.2』

 ビル・エヴァンスのラスト・レコーディングとなったライブ演奏を収めた作品です。レコーディングされてCDで発売されることをあらかじめ決めて演奏されたものとはないような気がしますので、一つの作品として意図して演奏されたものではなく、後世の残っている最後の演奏を記録(レコーディング)した CD ということだと思います。全部で23曲があり、その中からある意図を持って編集されて選ばれた作品集ということなのだと思います。
 
 ビル・エバンスが亡くなたのが1980年9月19日ですから、死の半月前の演奏ということなのですが、演奏の纏め方や聴衆の反応を聴く限り、体力的には傍から見ては問題がなかったような印象を受けます。しかし、演奏を聴くと、アドリブはいったときの音を創造する力が散漫で、あきらかに集中力を欠いているものに、kumac は聴こえます。しかし、人によってはスコット・ラファロ、ポール・モチアンとのトリオの活動が終わって後の、最後のエバンスの集大成という演奏という評価をする方もいるかと思いますが、それは人それぞれです。

 曲が持つメロディーやリズム、そして、そういった音の広がりにより創り出される世界観、雰囲気を、アドリブで演奏者の中で咀嚼して展開する中でする中で、新しい発見を創造するという、そういう魅力が演奏の過程で聴こえてこいないです。それとは逆に、曲が創造力のきっかけにならず、曲を弾くことでやっと演奏が成立するという、惰性に流れたものとなっています。

 しかし、それだけに、エバンスの本性が聴けるとも言えます。それは、クラシカルな洗練された音の美への感覚が、最後まで研ぎ澄まされて存在しているということかなと思います。無理に新しい者を追い求めずに、素直に自分に正直であればあるほど、演奏は居心地の良さに傾くと思うのですが、それがソウルフルでブルージーな方向にもたれようとはしないところは、さすがです。

 白眉は、5曲目「I Do It For Your Love」だと思います。ここでのピアノの音の鳴らし方は、たやすくできるものとは思えません。そして、そのドラマチックは演奏全体の構成は、紛れもなくビル・エバンスにしか出せない音ではないかと思います。

 エバンス好きの方は、聴く価値は確かにあると思います。

※ 取り上げたCDは、『Consecration The Last Bill Evans Trio Volume 2 』(アルファミュージック株式会社、販売東芝EMI ALCB-3928)です。

コンセクレーション~ザ・ファイナル・レコーディングス・ライヴ・アット・ザ・キーストン・コーナー.../ビクターエンタテインメント

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